沖縄の伝統工芸の歴史

沖縄は1879年の廃藩置県まで独立した琉球王国として、およそ1千年の歴史を有しています。天然資源をそれほど持たず、しかも多くの島々からなる琉球王国は、経済の基盤を広く海外に求めました。1372年に明に初めて入貢して以来、中国や日本・東南アジア諸国と積極的に交易を行い、それを通して、独特の工芸を作り上げてきました。

交易の最も栄えた14∼16世紀には喜名焼や知花焼のほか、漆器や紅型・織物などが飛躍的に発展しました。1609年の薩摩侵攻以後は中国の冊封使への対応が、工芸文化の芽となって次々と花開いていきました。貝摺奉行所の強化、薩摩経由の朝鮮陶器技法の導入、織物技術や漆器の加飾技法の伝来、中国での陶器技法の修得、知花、宝口、湧田窯の壷屋統合、織物の品質と図柄を統一する御絵図の考案など活発な動きが見られます。

先人の努力によって発展してきた工芸も、1879年の廃藩置県によって大きく変化します。貝摺奉行所のもと多様な技術を誇った漆器は、民営化によって重厚さと華やかさが乏しくなり、陶器も移入陶磁器との競争で大きな打撃を受けました。また織物は技術の良さと一般の需要に支えられて影響は少なかったものの、特定の人々を対象としてきた紅型は次第に衰退していきました。

沖縄県はこうした工芸産業の振興を図るため、昭和22年に工業指導所を設置し、県外の専門家を招いて指導を開始しました。その結果、漆器は斬新なデザインで県外市場に進出し、織物も好調に推移、陶器や紅型も一応の成果を上げました。しかし、それも今次大戦により全滅し、戦後はゼロから出発しました。

 

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技術・技法の変遷

諸外国の技術と沖縄の気候風土によって培われてきた沖縄の工芸は、それを輸出するまでに発展しました。薩摩の侵攻以後は、琉球王府は一段と工芸に力を入れ、貝摺奉行所や瓦奉行などを設け、絵師や工人をなどを置いて、意匠や技術の改善などを行うほか、工人を外国に派遣し、積極的に技術の導入を行いました。また優秀な技術者の生活を保証し、相当の地位を与える奨励策によって技術も高度に発展しました。それらの製品は琉球国内の他、中国・日本への献上品や贈答品として、琉球王国の外交を支えました。こうして織物が沖縄の各地に定着し、また漆器や陶芸、紅型が首里や那覇に栄えました。

しかし、国の事業として進められてきた工芸も廃藩によて民営となり、市場経済に移るようになりました。生産の目的や生産者が大きく変わったことにより、技術にも変化が見られるようになりました。価格や生産性・使いやすさなどに対応する技術が優先され、製品も重厚さや豪華さより、時代にあったシンプルで生活実感のあるものが求められるようになりました。

今に息づく沖縄の伝統工芸

明るい自然や生活環境などから生み出された沖縄の工芸は、その種類の多さや技法の多様さ、また、美しさや豊かさ、おおらかさなどにおいて、他に例を見ないと高く評価されています。沖縄の工芸はこのように多くの人々に愛されることによって現代生活にたくましく息づいています。

和装文化に支えられながら、洋装や室内装飾・小物などへ進出しつつある織物や紅型。生活の道具として、又室内装飾や屋外装飾・建築などへ用いられるようになった陶器やガラス。また漆芸は生活用具の他、家具や建築などへの展開が期待されています。

このように、多様化し高級化する現代の生活者の要望に積極的に応え、また、技術やデザイン・流通などの課題を乗り切ることによって、沖縄の工芸はさらに大きな発展が期待されています。